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YouTube            [at present]


 大変なものが出来たものだと思った。YouTubeである。かつて、演奏している映像というのは大変貴重なもので、NHKのヤングミュージックショーやNOW EXPLOSIONをTVの前で瞬きを惜しんで食い入るように見つめたものだ。まだ家庭用のビデオレコーダーも無く、本当に一期一会の気持ちで接していた。

 ベータやVHSが普及してからも貴重な事には変わりなく、秘蔵のコレクションをダビングしあって交換していたものだ。幸いコピー制限はなく、デッキが二台あればダビングし放題だった。

 それがいまや膨大なライブラリーがクラウド上に蓄積され、検索一発で直ぐ観られる。著作権については少々気になるものの、やはり夢のような話だ。残念ながら音楽史上重要と思われる60年代70年代の物は、そもそも数が少なく音も映像も決して良くないが、しばらく観ていればそれもあまり気にならなくなる。

 これまで意識してYouTubeに踏み込まないようにしていた。観始めたら切りがなくなると思ったのだ。音楽に対する気持ちも少し冷めていたのかもしれない。しかしこの度、バックアップ用に持っていたPCをYouTube専用機としてステレオオーディオシステムとTVモニターに繋ぎ毎晩のように楽しみ始めた。



追記:
バックアップとして持っていたPCはVISTAが入っていたもので、今回起動してみたらうまく動かなかった。そこでLinux OSをインストールし再生させた。2.4GHzで4G、SSD/250Gと、そこそこのスペックなので快適に動いている。



 中古のCD              [at present]


 LPレコード、アナログの時代、中古の市場がどれだけ有ったか。 記憶がない。 中古レコード屋というのが出てきたのは、CD がメインになってからではないだろうか。 アナログで録音された時代のものならば、アナログのLP盤というのがどれだけ素晴らしいか認知された時期でもあると思う。 

 LP は、ターンテーブル・プレイヤーの問題がある。 また、カートリッジの針や LPレコード本体といった、消耗するところがある。 この消耗と、 S/N 、 ダイナミックレンジにおいて CD は圧倒的に優れていた。 つまり、非接触のCDこそは中古で取引されるに適している。 

 長く使えないレコードプレイヤーであり、千枚に近いほど集めた LP が聴けなくなってしまっている。 聴きたいものは CD で買っている。 先日入手した、G.F.R. の Live が、やはりいい。 同時に買った、Todd Rundgren がまた、絶品である。 


幼稚園で指揮者              [Infant Days]


 昭和三十年中頃、一年保育は当たり前で、幼稚園 が大半だった。 その演芸会か 学芸会 のようなもので 指揮者 をやった。  記憶にあるのは、白黒テレビの時代。  教育3チャンネルでやっていたクラシックオーケストラの放送に合わせて、指揮をしていた。  ある種の ダンス だった、かもしれない。 

 テレビは家に一台しか無く、チャンネル権というものが一家にあった時代。  親も認める音楽視聴はクラシックだったので、大手を振ってクラシックでダンスを踊った。  そんな幼少期だったかも知れない。 


土産のアナログ盤              [High School Days]


 父は海外出張が多かった。 アフリカあたりに行くときの中継地としてのロンドンに滞在することも多く、これでもかというほど土産を持って帰ってきた。 その中に、たのんだ The Beatles の Abbey Road と Let It Be の LP レコードがあった。 七十年代最初頭の UK盤 だ。 1969 年のビートルズが、詰まっている。

 その後 フランスシャモニーで買ってきてくれた、Revolver と ELP の Turkus 。 ニューヨークで買ってきてくれた、Elton John の Tumbleweed connection 。 ロンドンの Island レーベルの、King Crimson 1st ,2nd 。 洋酒や外国たばこやらと。


 同窓会              [at present]



 浪人の時か大学一年かの年に出た以来の 同窓会 に行って来た。 万感迫るものとなった。 三十六年ぶりになろうかと思う。 中高一緒で、六年間過ごした人々だ。 

 その六年間を上回る経験をしているかどうか。 ここのところの六年という月日の、なんと早き事か。 お互い、天然記念物を見るようなつもりで見合う。 ある表情をすれば、「あっ、あいつだ!」 と確信を持つ。 中には、どこで見かけてもすぐわかるだろうという程、変わらないやつも。 声と話ぶりを聞いて、確信を持つやつ、とか。

 みな出世盛りで、まぶしい。 名刺をもらった三人は、あとでよく見れば素人目にも分かるなかなかの役職についていた。 高校時代の目立ち方とは、違う気がする。 
 新宿西口ではもう古株の高層ビル最上階で、あの京王プラザは隣だった。 あまり新宿に来なくなっているいま、しみじみと見てしまう。 

 思い出話に、花が咲く。 言われて思い出す事、言われても思い出せない事。 話は尽きない。 驚くような偶然で二年前同級生と再会したことが発端、の話だった。
 


NOW EXPLOSION            [High School Days]

 


 70年代初頭にはもうひとつ、深夜に民放で放送されていた "NOW EXPLOSION" という番組があった。 ビデオはおろか まだテレビは一家に一台しかなかった時代だから、家族が寝静まった暗い居間で眼を皿のようにして観た。

 内容はもうよく覚えていないが、サイケな当時としては最先端の映像処理、合わせ鏡の中で外人のおねえさんが踊ってるような画面を思い出す。 バックでよく流れていた CSN&Y の "Ohio" がえらくかっこ良かった。 番組のテーマ曲だったような記憶がある。 (スタジオ録音バージョンの)イントロのギター・リフだけが使われていたので、CSN&Y とは気づかない人も多かったのではないか。
 ビデオクリップなるものが当たり前になったのは80年代に入り MTV が登場してからだが、当時でも幾つかの曲はイメージビデオのようなものが作られていた。 そんなのを織り交ぜながら、あくまで音主体の番組という印象がある。

 それでもたまに、まばたきをいつしようかというような貴重なライブ映像が流れていた事がある。  忘れられないのは Grand Funk Railroad の "Inside Looking Out" (孤独の叫び) のライブ映像だ。 晴天の昼間、もちろん野外のスタジアムコンサート。 最初のライブアルバム収録時にごく近い、彼らの絶頂期ライブを記録した大変貴重なものだったと思う。 のちの電飾ギラギラの4人になってからのライブ映像とは違い、上半身裸のマークファーナーが はちきれんばかりの体でアクロバティカリイに動き回る。 曲の途中でグランド上をステージに駆け寄る興奮した観客と じっと黙って一人観ている僕、気分は同じだった。



Led Zeppelin を もう少し            [Led Zeppelin]


 Led Zeppelin をジャンル分けすればハードロックになるのかもしれないが、彼らにしてみればそれは窮屈なものだったろう。 ライブにおいては、Pink Floyd を強く意識した発言も聞いた。
 よく引き合いに出される Deep Purple の後継者はその後のメタルシーンにも沢山いるようだけれど、Led Zeppelin  の後継者は思い浮かばない。 ヘビメタとツェッペリンの間には一線を画してもらいたいと思う。

 ロンドンにも1960年代、スタジオ・セッションミュージシャンのシーンがあったらしく、よく知られているように John Paul Jones と Jimmy Page はツェッペリン結成前にすでに出世していて、そのシーンで売れっ子であったらしい。 一方、Robert Plant と John Bonham は無名のバンドマン。 日本で同様のケースはちょっと想像つきにくいが、英米でもこんにちでは有り得ないかもしれないと思う。 
 
 John Paul Jones は、どうしたらそんなベースが弾けるようになるのか?と訊かれ、一言 「モータウン!」 と答えたと聞いた事がある。 フィル・アップチャーチを聴いてベースを始めたとも。 

 John Bonham のドラムプレイのルーツは、バディ・リッチだそうだ。 高校の頃これを聞いた時には奇異な印象を受けたが、ドラムソロなんかを聴くとなるほどと思う。 このバディ・リッチは往年の名ジャズドラマーで、Deep Purple の Ian Paice、E.L.P. の Carl Palmer もこの人をフェバリットにあげていた。

 90年代に入ると Led Zeppelin のブートレグも続々CDになり出回った。 何枚か手に入れたが、中でも特に "Live in London June 1969" というのが素晴らしい。 演奏は1st アルバムからだけの曲だが、なにかが降りて来ているような、ほとばしるようなプレイだ。 ロックミュージックにおける最も偉大な年、1969年。 こんなライブが世界中のあちこちで、毎晩のように行われていたんだろうか。

 しかもこの "Live in London June 1969" は、明らかにライン録りである。 ライブのブートレグ(海賊盤)には、「会場録音」(オーディエンスの隠し録り)と「ライン録音」がある。 ライン録音はPAのミキサー(調整卓)から直で録った音なので、公式のライブ録音盤と音質的にはそう遜色がない。 

 昔きいた噂を思い出した。 
 Jimmy Page は全ての Led Zeppelin の Live をライン録音でとってあって、それをたまに引き出しては聴いて悦に入っている。 ライン録音のブートレグはそれが内部関係者より漏れたもの。 いずれ金儲けのうまい彼のことだから、小出しにその膨大なコレクションからライブ音源を出してくるだろう。
 以上、あくまで噂。


ツェッペリンのレコード            [Led Zeppelin]


 翌 1972年、ツェッペリン2度目の来日。 先述の秋元君はまた武道館ライブの隠し録りをしてきて、今度も行かなかった僕に聴かせてくれた。 前回に続いて、次のアルバムの曲がお披露目されていた。
 
 ツェッペリンもデビューから5枚目の この”聖なる館” (House Of The Holy) までがいい。 出だし一曲目、"The Song Remains the Same" から、スピード、キレ、グルーヴが尋常ではない。 このアルバムは全体的に演奏がタイトだ。 ジェイムスブラウン好きがうかがえる曲もある。

 僕にとって最も レッドツェッペリン の真髄を感じさせてくれる曲は、4枚目最後の曲、"When the Levee Breaks" 。 リリースされて間もなく駅前のスーパー1階にあったレコード屋で買い、冬の昼下がり日だまりの中で針を落とした。 A面最後の "Stairway to Heaven" は初来日後 アルバムが出る前から話題になっていて、隠し録りライブ音源からイントロをコピーしてる輩もいたぐらい、すでに大変な評価を与えられていた。 でも僕は "When the Levee Breaks" に何とも得体の知れない魅力を感じた。

 ツェッペリンの少なくとも71、2年の来日したころのステージは、さながらCSN&Yのようにステージの前に椅子を並べ、アコースティックギターの曲をまとめて演るパートがあったようだ。 ポスターではジョンポールジョーンズがマンドリンを弾いてるのを見た記憶がある。
 彼らはラウドでヘビーなサウンドの部分が語られる事が多いが、アコースティックサウンド、ブリティッシュ・トラディショナルフォークへの傾倒も強い。 3枚目のB面には、まるまるその想いが詰まっている。 "Tangerine" がいい。

 高校時代、毎朝おなじ電車のおなじ場所に乗って来る女の子がいた。 途中の駅で彼女は降りる。 無言で意識していた。 当時、都立の高校は軒並み制服を廃止して自由服になった時期だった。 センスのいい、どちらかと言えばアイビー系の私服で通学するその娘がある朝、ツェッペリンの2枚目をまるでジャケットをこちらに見せるように、袋に入れずに抱えて立っていた。 話も出来なかったけれど、勝手に "The Lemon Song" が彼女にダブる。

 LPアルバムのジャケットはたいてい見開きで、内ジャケと言うのだろうか開いた内側がまた楽しみだったが、ツェッペリンの1枚目は見開きになったものを見た事がない。 ジャケットの裏にはセピア系にレトロぼかしが入った4人の顔。 デビュー当時の彼らもまた、えらくかっこいい。 ジョンボーナムがまだ痩せていて、いい男だ。



Led Zeppelin 来日            [Led Zeppelin]


 1971年、僕が高1の時。 Led Zeppelin が初来日した。 7月 G.F.R. 、8月 Pink Floyd と来て、9月に Led Zeppelin だ。 いまの僕なら狂喜乱舞で行ける限り行くところだが、なんと僕は目と鼻の先にある 武道館 に行かなかった。 小遣いがさみしくなったのか、今となっては理由が定かではないが、その頃の僕は Led Zeppein がそれほどまでには好きでなかったのかもしれない。 翌年の再来日時にも行ってないのだから、一生もんの後悔が付きまとう。 特別な時代に居合わせているという実感が無かった。

 僕に ロック喫茶 ”ライトハウス” を教えてくれた小学校の同級生、秋元君。ホコテン仲間でもある。 歯医者の息子の彼は、小学校5年(1966年)になって転校して来た。その頃からエレキギターを持っていて、加山雄三のランチャーズやベンチャーズのレコードを持っていた。高1の時に再会した彼はツェッペリン、ディープパープル、フーのフリークになっていた。よく遊びに行った広い家の彼の部屋では Good Times Bad Times のシングルや "In Rock" "Who's Next" を しょっちゅう聴かされた。
 その彼は武道館に行き、大興奮で帰ってきた。ちょうど 4枚目の出る直前で、まだ初期の(会話録音用途が主だった)カセットで隠し録ったテープには新曲 Black Dog や Stairway To Heaven がグワングワンにまわった音で入っていた。 

 この手の隠し録りをした人間は当時かなりいたと思う。のちに出会った SONY のデンスケ(オープンリール・ステレオ)で録った ”Zep in 武道館” の音はさすがによかったが、たいていはトランジスタラジオを長い土管の中で聴いてるような音で、無骨なリミッターがたびたび音の遠近感を見失わせた。 

 後に大学になってから軽音に出入りしていた先輩に聞いた話し。 その人は会場警備のバイトをしていて、コンサート中はずっとステージに背を向けているという辛い立場だったが、その分余禄で サウンドチェック・リハーサルを見たという。 意外なことにプレスリーばかりをやっていたらしい。遊んでるようにしか見えなかったと言っていた。 後になってロバートプラントは大のエルビスファンと知る。

 90年代に入ってからだったか、深夜のTVで当時のワーナーパイオニアの担当者(偉くなって、背広着たおっさんにしか見えなかったけど)が 初来日のツェッペリンに同行して夜行列車で広島に行った話しをしていたが、めちゃくちゃ面白かった。 誰か持っていたら You Tube で流してもらいたい。 
 
 京都出身の元アイドルGS(銀座NOW 常連)というギタリストは、祇園のママから「ツェッペリンのメンバーが来てるからすぐ来い」と呼ばれ行くと、ジョンポールジョーンズが店のハモンドを延々奏でていたそうだ。 すごく上手かったらしい。


 さて、クロスオーバー、フュージョン、ディスコ、ブラックファンク、ブラコンの波をかぶった後の80年代に入ってから、30近くなった僕は Led Zeppelin の真の魅力に目覚める。 油絵のような彼らの音楽の重要な隠し味は、単にブルースだけではないブラックミュージックのエッセンス、湿りを帯びているがシャープなファンク感覚ではないかと思う。


ゲルマニウムラジオ            [Junior High School Days]


 中学一年のころ、ゲルマニウムラジオ(鉱石ラジオ)といって電源がいらないボリューム調節の無いイヤフォンしか鳴らせないラジオを手に入れて、夜中に布団の中でひっそりと深夜放送の音楽を聴き始めたのが洋楽との本格的な出会いだった。ビートルズのオブラディオブラダやヘイジュードなんかが流れていた。家では音楽が事実上禁止だったので、これは革命的な事だった。

 一度父親に「深夜放送を聴いている」と言ったら、お色気番組と勘違いしたらしくひどく怒られた。しかしオールナイトニッポン、パックインミュージック、セイヤングと深夜のラジオは若者の解放区になっていた。FENもご機嫌な本場モンを流していて、音楽好きにとってラジオが無くては夜も日も明けない時代だったのだ。

 ゲルマニウムラジオは、ダイオードという半導体を使ったシンプルなラジオだ。直径2~3センチの小さな円盤状の同調つまみで周波数を合わせるから、とても微妙だ。しかもAM限定。でも当時FMは無かったので全く問題なし。何百円という小遣いで直ぐ買える、魔法の小箱だった。


委員長になって            [High School Days]


 毎年 日本ダービーの頃に体育祭があった。 全く活躍するタイプではなかったけれど高2の体育祭、放送委員長となっていた僕は ”剣の舞” なんかが定番だったBGMを大胆に英米のロックミュージックに置き換えた。 クーデターのようなものだ。 

 本部席横のテントで、音源はオープンリールテープ。 リレー競技には、the Beatles ”Magical Mystery Tour” のタイトル曲。 騎馬戦には、ELP の ”タルカス” から A面最後のドラで始まる アクアタルカス。 棒倒しには、Led Zeppelin の ”移民の歌”。
 体育の先生はお膝元の事なので、始まって直ぐに「何だこれは?」と言って来たけれど、競技順に選んでテープに編集してあると言って押し通した。


 学校では毎日、下校放送というのを流していた。 もう生徒は残っていてはいけないという案内で、アナウンスも入ったテープを作りタイマー再生で流していた。 ”アルハンブラ” や ”引き潮” なんかが使われてて、薄暗い夕暮れ時に聴くのはなかなかだった。 

 是非 自分でも作りたいと思い、ビートルズ オンリーの下校放送を作った。 出だしは "A Hard Day's Night” のA面、ジャーンから4曲目までのワンフレーズずつごく短くつなげ、5曲目の And I Love Her から本編に入る。 この出だしの部分は後にディスコメドレーになったスターズオンと同じアイディアだ。 オープンリールの一時停止は音が軽くキュルついたが、イメージした通りのインパクトで満足した。

 続いて、Because, Yesterday, She's Leaving Home, Michelle,
Lucy In The Sky With Diamond, Sun King, Eleanor Rigby, You Never Give Me Your Money, Long And Winding Road, ときてラストは A Day In The Life 。 余韻のあとに 「これで本日の放送を全て終了します」 と女子のアナウンスで締めて、完。
 1972年当時、日本一の下校放送だったと、密かに自負している。


夕暮れに 校舎に響く  Sun King




放送            [High School Days]


 僕の学校は新宿にも近い所に在って、とてものんびりした雰囲気だった。校舎は戦前からある建物で、天井が高かった。 だから三階建てでもとても見晴らしが良く、夕日には心を打たれた。
 屋上からは淀橋浄水場跡に最初に建設された 京王プラザ がよく見えた。鉄骨の骨組みが高くなっていき、やがて白い壁が組み上がっていった。 霞ヶ関ビルしかない時代、嫌でも目が行く 新宿のシンボルだった。

 中学からやっていた放送委員。学校の放送を取り仕切る。 トップの委員長は2年生だが、高一になると意見が通りだす。 僕は昼の校内放送に目を付けた。 当番の曜日に2年の先輩を説得して ロック をかけ始めた。先生方、特に体育と音楽の先生から文句が出たが、この後 昼休みは一時間余りの校内ロック放送時間帯となった。 なかなか選曲は良かったと思う。

 当時の音楽ソースは一にも二にもラジオ、それもAMだった。FMは、実験放送のFM東海がFM東京に変わったばかりで、民放は一局しかなかった。まだまだAM全盛なのである。
 音楽番組は英米のロックをかけるところと、日本の芸能界のものをかけるところと、棲み分けがなされていた。洋楽のヒットチャートには いま考えれば大御所といった連中がどしどしシングルヒットを放っていて、非常にハイクオリティーだった。そんな番組を毎週欠かさず聴いていた。
 また、オールナイトニッポン、パックインミュージック、、、深夜放送が全盛だった。 トーク内容も当時の若者文化の最先端を反映していたが、合間にかかる音楽がとにかく素晴らしかった。毎日睡眠3時間位で学校に行ってた。 FENも首都圏はよく入ったから、こちらもよく聴きいた。


ポンペイの Pink Floyd            [Pink Floyd]


 70年代前半 僕が高校の頃、NHK 1チャンネル(総合)で ”ヤングミュージックショー” という垂涎の番組があった。 そこで、後には「ポンペイのライブ」と呼ばれる Pink Floyd のライブをやった。 大事である。 ビデオ録画などは夢のまた夢の時代、僕は当時 主力だった Sony のテレコ、(オープンリールで5号までのモノラル、9.5cm/秒)を用意し、テレビのイヤフォンジャックから録音した。 TVの音声というのは要はFMであるから、思いのほか いい音で録れた。 それを擦り切れる程、聴いた。

 ポンペイのライブはいい。 ピーカンの昼ひなか、ローマ時代の円形競技場での Pink Floyd 、シュールだ。 71年の10月だったというから、箱根のすぐ後になる。 

 彼らが初めてシンセサイザーを使ったのは ”狂気” だったと思う。 この頃のリックライトは主にハモンド、あとはピアノだけだ。 その他のパートの機材もいたってシンプル。
 出もとは必ず生楽器で、その後 音を加工するのは、エコーマシンとディストーション、クライベイビーにリングモジュレーターくらいのもの。 あとはテープを使うことであのサウンドを作り出している。 アナログである事は勿論のこと、生楽器による生演奏で基本的には成り立っている。

 ピンクフロイドで手もとの楽器を除いて最も重要な機材は、使われ始めたばかりの PA と、ビンソンのエコチェンだろう。 エコチェンとはエコーチェンバーの略。エコーマシンの事で、いまで言えば ディレイマシン になるだろうか。 当時、ミラノやら Ace Tone のスペースエコー(だったか)、いずれテープ式のエコーしかなかったのに、ビンソンは非接触の磁気ドラム式だった。 

 エコーズの途中で効果音をバックにギルモアが怪鳥の鳴き声のような音をストラトから出している。 身近なある人がこのポンペイを見て気付いたようなのだが、クライベイビーを逆に繋ぐと発振してあの音が出るのだという。 本物のクライベイビーとコピー物があった時、やってみた。 クライベイビーとはワウワウマシンの本家のようなもので、定かではないがイタリアのジェンという会社製のものだけが名乗れるものだった。 はたして本物のほうだけはしっかりと、紛れもないあの 怪鳥の鳴き声 を出した。 ストラトのマイクスイッチやボリュームのつまみをいじると、様々に変化してゆく。 その時の興奮を想像して欲しい。

 ”ウマグマ” の裏ジャケットには当時の使用機材が陳列されているが、69年のこの頃と71年のポンペイまで、大きな変化はないように思われる。 これは進歩的と言われた彼らが、あくまで機材は人間が使いこなすもの という揺るがないスタンスを確立していた証左ではないだろうか。



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Pink Floyd のレコード            [Pink Floyd]


 シングルヒットのあまり似合わないこの Pink Floyd が "Julia Dream(夢に消えるジュリア)" という曲を出した。 牧歌的でトラッドな薫りのする曲で、妙に好きだった。 "Relics"というアルバムに収録されたので、これを手に入れよく聴いた。 ニックメイソンのイラストがジャケットで、サイケなシングル曲が並んでた。

 ”原子心母” は敷居の高いアルバムと感じたが、これまで味わったことの無い気分にさせてくれた。 If から始まるB面も好きだった。 
 箱根で新曲として披露された ”エコーズ” が収録されたアルバム "Meddle(おせっかい)" がやがてリリースされた。 これは本当によく聴いた。 Echoes はもちろんだが、A面の Fearless がいい。 ラストにかぶさる群集の大合唱は、てっきり最近まで労働大会かなんかのシュプレヒコールと思っていたが、サッカー・リバプールの応援だそうだ。

 この後 サントラの ”雲の影” そして超有名な ”狂気” と来る。僕にとっての Pink Floyd は、そこまでだ。 一応、ロジャーウォーターズへの敬意を表して "The Wall" は入れてもいい。 しかし豚が飛び始めたステージを、箱根アフロディーテと一緒にして欲しくはない。

 渋谷の西武B館地下にビーインがあって、その隣 今のロフトのあたりに パレス座 だったか名画座系の映画館があり、2本立てで百幾らとか二百円で渋い映画をやっていた。 そこで 「モア」 を見た。 後にCDの時代になってこのサントラ盤を手に入れるが、"Julia Dream" と同じ色合いを持ったよいアルバムだ。
 中に "Green Is The Colour" という曲がある。 90年代に入り色んなブートレグがCD化されて、Pink Floyd もかなり出たが、そこから察するにこの曲は70、1年当時 ライブの定番であったようで、箱根でも演奏されたという。 モアに収録されたスタジオ録音版もいいが、ライブのアレンジはかなり別物で、僕はこのブートレグのバージョンがすこぶる気に入っている。

 ”ウマグマ” はあまり語られないが ”モア” と同じ69年のアルバムで、LP2枚組み。 ファンであれば是非 聴いて欲しい。 一枚目がライブで、もうシドバレットは居ないが、彼が居た頃の曲や「神秘」をやっている。 二枚目はメンバー4人、各自のソロを集めてありそれぞれ秀逸だが、僕はドラムのニックメイソンのトラックがとても印象に残っている。「飛んでいる」のだ。


箱根アフロディーテ            [Pink Floyd]


  朝が早かったことがあったのだろうと思うが、前日から僕らは数人の同級生で小田原城近くの公園で野宿した。 目の前の校舎になぜか明かりが点いていたのでフェンス越しに見ていたら、窓際に逆光でシルエットだけの女子生徒が何人も重なり「先生ーっ、男のひとがー!」。  
 
 翌朝、高原といった感じの道を おおぜい人がゾロゾロと歩いてた。 入り口では試供品サイズの、ミニ・キンカンを受け取る。 少し高低があり ぬかるんでる場所を抜けて、メイン会場に入る。 
 1971年8月6日、”箱根アフロディーテ”初日である。

 第2 ステージ では延々と日本のロックが出てたらしいけれども、あまり興味が無かったのか、チラッとしか見なかった。
 メインステージでは第一部として朝早くから学生ビッグバンドやらもう色んな日本の人が出てて、1910フルーツガムカンパニー と バフィーセントメリー が外人代表だった。午後の4時くらいまでだったか。 それからの第二部 Pink Floyd までの休憩というかサウンドチェックはもう延々、それこそ語り草になる長さだった。 

 check, check,  one two, one two.   one two, one two. いま思えば、あれはディレイタイムの調整だった。 デジタルでコンマ何セコンドなんてないから、ビンソンのエコチェンを手動でコントロールしていたんだろう。 

 この Pink Floyd の箱根での素晴らしさは伝説となっている。 高校一年の僕にも強烈な印象を残した。 ちぎれて流れる雲がステージにかかり、僕らは神々しいひと時を共有した。


で、Pink Floyd            [High School Days]


 記憶に残る印象だけで言えば、野生動物を囲いに入れてしまったような不自由さが感じられるG.F.R.のスタジオ録音。 あの2枚組みの "Live" がなければそんな印象も無かったろう。 それくらい この70年に出た最初のライブアルバムの衝撃は、大きかった。 僕は中学から高校へと進む時期で、やっと自分で「LP」を買い始めたところだったけれども、その初めの何枚かにこの "Live" が入っていたのは幸福だった。 

 初めの何枚かにはあと、S&G の ”明日に架ける橋” と白ジャケの ”ベスト” があった。つまり高校一年当時の僕は 色々聴いていた。 C.C.R.も好きだったな、あとエルトンジョンや、もちろんビートルズ。ツェッペリンにストーンズ。言い出したらきりが無い。 それくらいその時代の音楽はまるでルネサンスの様に花開いていた。 重要な プログレ も大輪の花をそこここに咲かせていた。
King Crimson, Pink Floyd, ELP, Yse はいまだに大好きだ。

 で、Pink Floyd 。 少し調べてはっきりしてきた事だけれども 高一の夏は後楽園の G.F.R. から箱根の Pink Floyd へとたて続けだった。 当時は 牛のジャケットで文字の無い ”原子心母” が出た後で、友人たちとよく聴いていた。色々たくさん出る野外コンサートということもあったのだろう 野球部でサードやってた奴まで混じって、数人で ”箱根アフロディーテ” に行った。


G.F.R. の メルサッチャー            [Grand Funk Railroad]


 G.F.R. は当時から ジーエフアール などと発する人はなく、通称は グランドファンク 又はもっと縮めて グラファン だった。 しかし ファンをもって認ずる者は グランドファンクレイルロード(Grand Funk Railroad) と ちゃんと口にして欲しい。

 マークファーナーとドンブリューワーの魅力は両者リードヴォーカルをとることもあり、語られる事も多いかと思う。 だからメルサッチャーの大きさを指摘したい。 がっしりと下で受け止め、ドラムと見事に絡み合ったベースプレイ。 目立たないが実は大切なのが彼のスラーを巧みに使うエレキベースのプレイなのだ。 マークのようなアクロバティックなステージアクションはなかったが、のけ反ってリズムに乗る姿は めちゃくちゃいかしてた。 

 1969年が彼らのデビューなので(1951年生まれらしい)メルは若干 17、8才。 後楽園でも 19か20才だ。 他の2人も1948年生まれらしいので、デビューが19か20才。後楽園が21、2才の時の出来事だ。 この早熟ぶりは この頃の英米ロックミュージシャンに共通する話で、たいてい20代の前半には人生における ひと仕事 をやりとげている。この不思議は また改めて記したいと思う。


新宿 歌舞伎町の ”ライトハウス”        [High School Days]


 僕の高校時代は新宿。歩行者天国だった。 毎日曜日 出かけては ホコテン を歩き回り、歌舞伎町のロック喫茶 ”ライトハウス” で何時間もイギリス、アメリカのロックミュージックを聴きまくった。
 
 1971、2年あたりの新宿はエキサイティングだった。 ホコテンでごった返す大通りから、マクドナルドがあった二幸の手前を左に折れ靖国通りを渡るとコマ劇場に突き当たる。その手前を右に入り左側 何軒か目の地下にあったのが ”ライトハウス”。 でかいスピーカーでガンガン、何時間も聴いてられる。 Rolling Stones の "Wild Horses" や Faces の "Stay With Me" 、ユーライアヒープの"ジュライモーニング(七月の朝)" なんかがよくかかっていたっけ。

 選曲と曲紹介のしゃべりを入れる主に女性のDJが居た。 よくリクエストをしたけど、G.F.R.の"ハートブレーカー"だけは一回しかかけてくれなかった。 すでに後楽園から1年たったあたりで、うるさ方にはこんな評価だったのだ。



後楽園のG.F.R.        [Grand Funk Railroad]

 
 梅雨の終わりを告げる夕立が何日も続いていた。 あの1971年の7月。 高校一年の僕は連日"GFR LIVE” を聴いては指折りその日を待った。  当時の若いやつらの街はなんと言っても新宿。その西口の小田急にあったプレイガイドで、座席表を見ながら手に入れた後楽園のチケット。リリースしたての"Closer to Home" のジャケット図柄が印刷してあったっけ。

 17日は、ついにやってきた。 水道橋あたりは異様な熱気が漂っていた。 これまで何回か巨人戦を観に来たことがあったけれど、全く別の場所になっている。 席はバックネット、一塁側ダッグアウト寄りの前から10何列か目だった。 まず目を引いたのがステージの両側、かなり高い位置にそれぞれ1/4円状にセットされたスピーカー。 前座がいくつか出てその最後が”マッシュマッカーン”。その最中に突如 強い風が襲い、ステージ前のでかい板のような看板が飛んだ。 ざわつく場内。そして間もなく怒涛のような雷と雨。 オーディエンスの興奮は爆発した。 僕は日本人があんなに熱狂するのを見たことがない。

 GFRの登場は遅れるが、後楽園を埋め尽くした僕らの狂乱はおさまらない。 ただ皆 口々になにか叫びまくっている。 どれくらい待ったのだろうか。雨がすこし小降りになった頃、電光掲示板にメンバーの名前がバラバラっと表示され、ついについにマーク、ドン、メル の3人が、すぐ下の一塁側ダッグアウトから小走りに現れた!

 それからは・・・もう説明の域を超えてるし、必要もないだろう。 行けなかった悔しさか、「あれは感電が怖くてテープ流してたんだ」などと言うやつもいるが、そんなことはどうでもいい。 何万人もが至福の時を共有したんだ。 この曲になったら総立ちでなんていうお約束事の予定調和とは対極にある、地の底から湧いてくるような熱狂、これにみんな突き動かされていた。


 この彼らが最初に出したライブアルバムは、現在どう評価されているんだろう? 3人でやっていた頃の彼らがやはりいい。"On Time" "Grand Funk" "Closer to Home" のスタジオ録音3枚とこの "Live"。 ここまでを G.F.R.黄金の時代と呼びたい。


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